泉 康雄の海外での言いたい放題サイトマップ

ようこそ!

論文

著書・総説

研究紹介

経歴

アクセス

連絡先

言いたい放題

研究グループ

リンク

2007年以降の言いたい放題 | 2005〜6年の言いたい放題 | 2000〜4年の言いたい放題 | 海外での言いたい放題 | スタンフォードでの言いたい放題 | 研究者川柳

(1) 1989 米国(NY)〜フランス(パリ、リヨン、マルセイユ、アルル)〜スイス(チュー リッヒ、ツェルマット)〜イタリア(ジェノバ、ローマ)

ツェルマット〜ジュネーブ〜リヨン、の経路を通る。レマン湖が右側に見えてきたときの感動、そして並び立つ糸杉にはただただ感動した・・・

同行の友人が、水を得た魚のごとく、男根の専門雑誌を買って、阿修羅のような顔で見入っていたので、人それぞれだな、と思った。彼は本をパリで捨てたようだった

 

(2) 1990 韓国(ソウル)

 

ひと昔前の、日本の田舎を訪れた気分。逆にいうと、旅行気分とは少々異なり、退屈な部分もあった。しかし、行きの成田〜京城の航空券は上記の世界周遊の余り券であることを考えると、まあよい時間潰しとなった。帰りは京城から南へ鉄路移動、フェリーで九州に入る。時間を持て余し気味だった旭化成時代だったから、自分を見つめ直すいい機会になった。そういえば、普通の安宿だったのに、なぜか何皿もある晩飯を出してくれたな〜

 

(3) 1990 台湾(台北、台中、他)

 

研究室で一緒だった劉さんの案内で台湾を豪遊。リッチなレストラン、プレジデントのような社用車(劉さんの会社関係のもので、劉さん自らドライブ)社長気分だったが、少々胃がきつかった。台北の博物館で聴いた中国琴の不思議なテンポとメロディが気に入り、街中のレコード店を探して、やっとテープを見つけだす

 

(4) 1995 米国(ハワイ)

 

遊び全部の学会だった

 

(5) 1996-1997 米国(居住、スタンフォード)

 

こちらをご覧ください

 

(6) 1996 米国(居住先より国内移動、ボルチモア)

 

世話に疲れる。黒人のタクシーの運ちゃんが癒しだったな〜

 

(7) 1996 メキシコ(居住先より、ティファナ)

 

国境付近、アメリカ側から車を飛ばす。周りの雰囲気が荒涼としたというか、人気のない、放ったらかしの草っ原に変わってゆく。髪を振り乱した母親と子供のイラストに×印の入った標識。違法入境者あり、注意という意味のようだ。国境をカリフォルニアナンバーで超えるのは手続きが非常に面倒なので、車を降りて、バスでティファナへ。ソウルのドヤ街を見た時凄まじい生活環境に唖然としたものだが、それを超える酷さで、ものが言えなかった。古い魚屋なのか、それが放置されているような臭いも立ちこめていた

国境の道路の検閲ブースのところがなぜか記憶に残っている

 

(8)1997 カナダ(居住先より、バンクーバー経由、ウィスラー)

 

わざわざスキーに出かける

 

(9) 1997 米国(スタンフォード)

 

投稿論文を完成させるため、3週間程度渡米。週末は、秋のナパに宿泊したかったが、当日に来て、とてもじゃないけど空き部屋なんてないですよ、と断られた。サンフランシスコまで戻って、宿泊。ワインとシーフードがうまい

 

(10) 1999 サイパン

 

森高千里の「わたしがオバさんになっても」にも出てくる、サイパン。どんなところだろう、と思いながら、アメリカン航空のマイレージを使って、日航で到着。よき田舎、という感じ。ホテル街だけでなく、山の方もレンタカーで廻ると、一般生活の臭いも少々感じられて楽しかった(下記地図参照)。ただし、甘くみているとよくない。陽射しは経験したことがないほど(例えば上記のマニャガハ島のそれはホント、凄かった)で、滞在4日めだったか、日焼けにより発熱して、ホテルでへたばっていた

 

 

(11) 2000 スペイン(グラナダ)

 

パリ〜マドリードと乗り継いで到着。マドリード空港では、丸い目と丸い顔をした若い女まで葉巻きみたいなのを吸っているのに驚く。マドリードで1泊(ホテルダイアナ)。翌日早く、グラナダへ空路で向かう。カリフォルニアのように風が爽やかであった。安価で快適なホテルで、普段の仕事の続きもやったけれど、はるかにはかどった

記念にとっておいた地図を眺めてみる。グラナダセンターというホテルから、徒歩でコングレスセンターまで歩いた。街の中心を歩いてもいいし、広い道路を真直ぐいく手もある。街には歴史を感じさせるモニュメント等があり、30分弱の距離は気にならなかった。

 

会議参加費と懇親会費がタダになった。変に目立つとよくないが、まあいいかと思い、懇親会で賞状を貰う

(12) 2000 米国(ハワイ)

 

学会会場のおそろしく冷房の効いた部屋は応えた。解決策として、子供をだっこしてゆくと、湯たんぽ代わりになって、議論も弾んだ。ハワイというのは、ろくな食い物がない。タコベルでタコスばかり喰っていた

 

(13) 2002 ベルギー(新ルーベン)

 

 

知念里奈に似た受付のお姉さんが印象的であった。赤のブレザーに黒のスカートというのはベルギーのナショナルカラーなのかもしれない。往路、帰路ではブリュッセルにて、産総研稲葉さん夫妻とビール片手に楽しいひとときを過ごす

(14) 2003 スウェーデン(マルメ)

0) 出発前日

旅の記憶というのは不思議だ。

特に海を亘った旅の場合、行きおよび帰りの道中の記憶はほとんど残っていない。記憶の中枢を占めているのは、海外ではしゃいでいる記憶ばかりで、前後がきれいに欠落しているのである。道中でも海外の空港等の記憶なら、不思議とある。空港に入れば、そこから旅が始まっていると、スイッチされているに違いない。

空港というのは、際立ってその国の雰囲気を反映するものではない。むしろ、ガラスとエスカレーター、長い廊下、道案内、とおしなべて没個性的なものである。そうした国際空港でさえ、外国ではゲートを出た途端、強烈な印象の記憶が開始している。マドリード空港の夥しいスモーカー、グラナダ空港のそよ風、こじんまりしたサンノゼ空港のメキシコ的な味わい・・・

コペンハーゲンはどんな記憶を与えてくれるのだろう?そして近年になって国境を分けたマルメはどうか?道中は澁澤龍彦を読みたいが、バッテリー頼りに、残りの発表準備作業に追われることになるのか。アムステルダムでの4時間もの待ち時間は、コーヒーでもそそることになるに違いない。何せ、ユーロはたっぷり残っているのだから。

 

1) 到着まで

23月曜朝5時半、5時間くらい寝た。まだ眠い〜成田からの便でまずスウェーデン上空を通り越して、アムステルダムに入った。分かりにくいのは、地球儀で見ないからか。機内のモニターを見ていて、あれれと思う。安くあげるため、アムステルダムでは5時間近く待ち時間あり。成田からの便が遅めに出たのに、なぜか早めに着いたためよけい長く感じられる。

デンマーク上空に入ってから、自然特に海のきれいさに圧倒される。海と橋が見えてくる前も、緑のきれいなデンマークの国土が見える。その上にきれいに家や道路、鉄路が並んでいる。アムステルダムからデンマークは日本ではもう深夜の時間だったので、ほとんど寝ていたが一時間くらいだったはず。さっき来た分をちょっと戻る、って感じ。

デンマーク北の海、スウェーデンとの橋、それになぜか曲線を描いて空港近くの海の中に風力発電の大きな風車(扇風機みたいなやつ)が放物線を成すように7つほど並んでいる。幻想的な気分は読んでいた本(高丘親王航海記)の影響もあるかも。天竺へ行き、また薬子がそばに居るような不思議な気分になる。

コペンハーゲン空港からマルメ市街への電車でしきりに麻薬を探すため、警察(?)が犬を車内中をくまなく探していた

 

2) 月曜(会議1日め)〜水曜(会議3日め)


決して高級ホテルではなかったが、毎朝食事はうまかった


夜10時ごろ雨でカフェからなかなかホテルに戻れず、夜も凄い風雨に、寝ていても気付くほど。火曜朝は晴れ。

期待していたほどからっと晴れない、日本の梅雨ほどではないが。火曜(会議2日め)の発表で、日本のO大学の某先生がなぜか大阪なまりの英語で原稿を手にしながら発表したあげく、日本人が座長(司会)であることをよいことに、日本語で質問内容を座長から教えてもらっていた。英語で話している時に、「あーそう」「うんうん」とか間に入れる間合いが絶妙で、笑いを誘っていた。人を笑うのは簡単なのですが、今日は自分も口頭発表なので、笑われないようにしないと

懇親パーティ(木曜)にただで参加できるよう、お誘いを受けた、感謝!

 

3) 水曜(会議3日め)夜

 

発表が済んで、明日はポスター発表だけなので、ホテルに夕方に帰ると特にすることもなく、メールで来た大学の雑用の返事等をする。506号室。外にはビルと貨車がみえる。

自宅と連絡事項があり、30分〜1時間毎にメールの送受信をする。21時40分、少しだけ、陽が陰ってくる。気晴らしに書いた絵葉書をホテルのフロントに渡しに行く。22時半、ようやく夕暮れ。23時、外はかなり暗くなってきた。午前3 - 4時ごろ、かなり明るい。うつらうつらして、6時半にメールを見ると東京から、次男誕生の知らせ。カーテンを開けると、きれいな青空、すでに昼間と変わらない陽射しだ

4) 木曜(会議4日め)

 

ポスター発表風景のを載せます。この後、ルント大学内にある放射光施設MaxLabを見学。意外とこじんまりとしたところだ。その後ルント大学内の、洒落た庭付きのゲストハウスみたいなところでコンパ

 

5) 撤収

金曜朝ホテルを7:30前に出る。12時過ぎのコペンハーゲン行きの出発まで、コペンハーゲン市内にダッシュして、土産を探す。セブンイレブン、ホットスパと店のマークは一緒で「何とかスパ」という店ありで少々興ざめ。また英語が通じにくいこともあるが、愛想が悪い人あり、は少々意外。

やっとの土産選びが済んで、出発10分位前になってギリギリ、アムステルダム行きの便に乗る。土産のフォークとナイフを機内へ持ち込めなかったり、免税分現金化が結構大変だったり・・・「愛想が悪い」のではなくて、この日本人に呆れていたのかも。

コペンハーゲンからすぐ南へ向かうので、半島北の光景(行きの便では夕焼けを背景に見えた)は見えませんが、アムステルダムまでの低い地域を写真にとる。

持参した本(高丘親王航海記)、飛行機が成田に着くと同時に読み終える。年末のカウントダウンで、ちょうど正午にオーケストラ演奏を終える、とかいったイベントがあるが、意図もしないのにちょうど読み終えるとは、本に出てくる年増女、薬子の夢のせいか?

 

 

 

(15) 2004 スペイン(マドリッド)

 

1. 出発

 田園都市線が5分くらい遅れたお陰(渋谷駅で「迷惑行為」があったらしい)で、錦糸町で乗り継ぐ予定だった、「エアポート成田号直通」を乗り過ごしてしまう。千葉、成田、京成と鈍行を乗り継いで、集合より40分以上遅れて、空港に。マイレージはBritish Airways(BA)にためることにする

2. 中継地

 ハバロフスク - シベリア平原 - フィンランド - ストックホルム - デンマーク - ヒースローと飛ぶ。冬のヨーロッパは1989年以来だし、しかも当時、最短距離でロシアの真上を通っていたかどうか覚えていない。ともかく、初めて見る冬のシベリアの風景の凄さに圧倒される。ヒースロー(ロンドン)にはせっかく到着予定より30分以上も着いたというのに、ゲートが埋まっているということで、結局止まっている飛行機の中で、1時間くらい待つ。ロンドンの陽が次第に傾いて行き、夕刻の空になる。せっかくなら、行ったことないロンドンの町も見たかったな〜
 ヒースロー(第一ターミナル)は思っていたより、パリや成田と違い、小さい感じ。また近代的に改築してもないようで、アメリカの空港に近いかもしれん。
 ロンドン〜マドリッド(またBA)は、お菓子半分のふざけた料理。2000年のパリ〜マドリッド(エア・フランス)では、国際線に劣らぬ質のラザニアが出てきたのと好対照。不景気のせいかもしれんが・・・慣れない団体旅行(海外では初体験)のため、いろいろなところで知らない人が集合するのを待たなければならず戸惑う。マドリッド空港の荷物が出てくるところで、レンタルVodafone(モトローラV66)で自宅へ電話。なかなかよい電話だ。

3. 深夜到着

 ホテルの部屋に解放されたのはもう午前零時を過ぎていた。早速、ホテルの部屋でネット接続(パルス式)してから、6 - 7時間寝る。熟睡したので、つくば実験と書類書き、そして飛行機旅行の疲れがからだから抜けていった。

4. マドリッド一日め

 ホテルで朝飯。ハムやコーヒーもあり(当たり前か?)、思っていたより満足。ただ旅行(JTBの懸賞当選の旅行)とはいえ、部屋一人使用ということで一泊6,000円は払ってるからなー。午前9時半。昼飯がてら、土産をCallao通りに買いに行く。
 子供の土産を買う。スペイン語の幼児本(排尿・排便等について)。「ナビグリオ」という鞄を頼まれるが、あいにく品切れ。ルイ・ヴィトンの総合カタログを貰っておく。店頭で類似品をみると、結構ダニエ柄でいいデザインだ。ルイ・ヴィトンからの帰り、Callaoの辺りで小雨に降られ、ちょっとくじける。結局5時間くらいマドリッド界隈をプラプラした。
 晩飯を部屋で喰うため、ホテルの近くで赤ワインやらサンドイッチやらを買う。ついでにサフランの香辛料の中国人のスーパー(何でも屋)で買う。ホテルのすぐ左隣がセゴビア(ローマ時代の水道橋他が残っている町)に行くバスの発着所らしいことに気付く。明日行こう。飛行機内を含めて、デジタルビデオはやっと30分位撮った。子供と一緒でないと撮るものがなくて困る。
 夜はホテルで、成田〜ロンドン便から見えたシベリアやフィンランドの物凄い冬の自然を思い出しながら、ショスタコヴィッチの交響曲7番(ゲルギエフ指揮)を持参したポータブルCDプレーヤーで聴く。

5. マドリッド二日め

 朝からローマ時代の町、セゴビアへ。往復で10ユーロ弱。でも空模様が怪しい。ホテルで傘を借りて行く。一時間少しでセゴビア到着。バス停から有名なローマ水道橋のところへ。あいにくの雨の傘を差しながらビデオ撮影。壁に意匠を凝らした家やら広場やらの見学コースを歩く。日本人グループ観光客のツアーと前後する。聖堂からはやや狭い下り道になり、石畳を追い抜いて行く車を気にしながら、アルカサールへ。ワンボックス車だとこっちの傘が当たってしまうよ。アルカサールで入場料を払っていると、日本人ツアーのガイドのスペイン人女性に声を掛けられる。雨はいつもではないそうだが、セゴビアはマドリッドよりは降るそう。それにしても、雨で観光客が比較的少ないから、その点はいいかも、とのこと。アルカサールの中を見終えて、バス停まで戻る。もう昼近くなっていて、スペイン人観光客(地元の人たちかもしれん)も増えてきた。行きには新鮮に見えた町も、帰りには観光だけで生計を繋いでいる田舎町であることに気付く。それにしても英語が通じない。イカスミのパエリヤを喰う。この店ではどうしても"water"が通じず、もう少しで飲みたくもないコカ・コーラを飲まされるところだった。クレヨンしんちゃんのキーホルダーがこの店で売っていると、妙に新鮮に見える。
 昼食後、マドリッドに戻る。バスでうとうとしていたが、市内近くから渋滞する。一旦ホテルに戻ってから、ルイ・ヴィトンに行く。ホテルからカヤオ広場までバス、そこからのんびりと歩いて北上する。16時には開くと思って行ったが、昼休みは14時から16時半まで、とあった。でもスペイン語で何やら曜日がどうのこうの、書いてあるが、意味が分からない。せっかく来たのだから、コーヒーを飲んだりして(1ユーロ、安かった)、16時半にまたルイ・ヴィトンに行く。イギリス人やらスペイン人が数人入って行く。代わりに頼まれた、「サルサ・ロングストラップ」を顔だちのよいスペイン人の店員に探してもらうが、なかなか見つからないよう。「サルサ・ショートストラップ」は受け付けすぐ後ろの引き出しにあったが・・・すると、返品があったらしく、「ナビグリオ」をお姉さんが出してきた。一件落着!品物を見つけると、店員も少し美人に見えてくるから不思議だ。
 最後の晩飯はホテルのレストランで。Motorolaのコンパクトでこなれたデザインの画面に「E Vodafone」と出ているので、electricかな、earthかな?とかふと考えていたが、帰りのヒースローでは「UK Vodafone」と出て、悩みは解決した、綴りはespangolだったかな?

6. 復路

 帰りの飛行機はちょうど太陽とは裏側の時間の移動となる。機内サービスの音楽(南西ドイツ放送交響楽団のマーラー1番、ツェッペリンIV、マイルス・デイヴィス・バラード特集)を聴いたり、寝たり、南アイルランドの初老の紳士と話して過ごした