表面化学研究室(千葉大学理学研究科)の読後記

人生の実りの言葉 読後記

 

「人生の実りの言葉」中野孝次、文春文庫 読後記

時系列的に執筆されたようで、高齢の著者が人生を振り返るかのような記述も終盤みられるが、全編に亘って、むしろ実に瑞々しい感性に溢れた随筆である。あとがきを読んでいて、私は、なぜかベートーベンの枯れたピアノソナタ30, 31, 32番(私はエミール・ギレリス盤を特に愛聴している)を思い出した。たとえ高齢のため長い文章は書けなくなっても、こんな宝石のような短編が書けるようになるのか、と思った。感情を抑えた、しかし深い優しさ、渋さ、美しさに溢れたベートーベンの後期ソナタに通ずるものがあるな、と感じた。
 著者が文中で述べているように、日本の古典を読み出したのは40歳を過ぎてから、そして執筆時74歳くらいのはずだから、私は著者の後半生の思索に特に惹かれる。芭蕉の「貫道するものは一なり」、兼好法師が説いた「あれこれ手を出していると、何もまとまらなくなる」という節は、鋭い指摘、それを優しく語りかける。
 尾崎一雄の「少し不便でよいから、もっとのんびりさせておいてもらいたい」、疲れたら休むがよい、彼らもまた遠くは行くまい」というのは、進歩第一、科学万能という風潮へのアンチテーゼと著者はいっているが、私にはさらに含蓄深く感じる。上記徒然草の節のように、先達からの「指針」のように読めるような節に対して、これら尾崎一雄を扱った節は、先達からの「応援」のように思えた。
 テレビの政治番組等で、いい年をしたおっさんがペチャクチャ恥ずかしげもなく話す、いまの文学には全く興味を示せない、と言い切っている点も示唆的である。今日の日本では、西洋文化の真似をして、要点も意見もなくともかくベラベラ話すのがよい、と小学校から大学院に至るまで教育しているのだから無理もない。この点、考えさせられた。
 高見恭子さんのお父さんが死を前にして、生の輝きを書いた文章の瑞々しさ、やさしさときたら!兼好法師も似たようなことをいっている。「清貧の思想」も読みたいが、「徒然草」についてもいずれ読んでみたい。

泉 康雄と澁澤龍彦

 

10月末日、滞欧日記を読み終えた。

よくビールを昼から飲み、また知人等としょっちゅうコンパをやっていたようだ。私もグラナダ(2000)およびベルギー(新ルーベン、2002)で昼からビールを飲んだ。何か、非日常で、ゆとりをもってビールを飲むととても贅沢な気持ちになれる。

文学者でないから、澁澤氏ほど美術館に熱心になれないけど、でもフランス印象派以降(ルドン等特に好き)やフランス映画が好きだったから、澁澤氏とは結構気が合って、共通の土地に訪れている。43ページ、外国にいくと、頼みもしないのに演奏したり、鳥を肩に乗せたりして小銭を要求している、昔も今の同じだな。51ページ、先月ブリュッセルまで行ったのに、ブルージュまで足を伸ばせばよかった。忙殺される日常から欧州でも完全には脱出できず、あくせく学会に張り付いていた(相当まじめだった)ことがいいんだか悪いんだか。でも、澁澤氏は「観光地化してる」とけなしているから、ちょっと溜飲を下げる。

サクレ・クール、ピガル、洗濯船、ポンピドーセンター、は観光したのが13年も前(1989年冬)だから、もうそちらも想い出。

アルル。いずゴンはマルセイユに泊まって、日帰りでアルルをやはり歩き回った。196ページのように、私も足が棒のようになったが、見所いっぱいの町に満足して電車でマルセイユに戻った。

マドリッドは確かに砂漠に降り立ったようだった。2000年夏、私は夜遅く着いて、ホテル「ダイアナ」に泊まって、朝早くグラナダへ飛んだ。81ページにあるように、フランスに比べ、貧しいんだよね。パリからの飛行機でスペインに入った途端、急に砂漠ばかりになり驚いた。1996年初夏、ロッキー山脈を空から見た以来の衝撃を覚えた。でもグラナダはちょうどアメリカ大陸のカリフォルニアのごとく、気候温暖でまた比較的緑もあるんだよね。実はアルハンブラは私にはつまらなかった。

イタリアの美術や建築も私はホントはよく分からん。でも澁澤氏のように専門であればいろいろ楽しいようだね。でも、カラカラ浴場、フォロ・ロマーノ、スペイン広場、等はやはり澁澤氏と同様食事を楽しみながら観光した。バチカンでスリがいたな。ローマまでしか行けなかったが、もっと南もいいようだね。

澁澤氏は美術、建築、文学の記述が多いけど、かなり自然の美しさ、面白さについてもよく観察しており、私にはそちらがむしろ心惹かれた。

ドイツ、ギリシャはまだ行ったことがないけど、今度行く機会あれば、この本を携行して行こうと考えている